今日もニュースを斜め読みしていると「部落差別」についてのニュースが目にとまりました。
内容としては「ネット上に悪質な部落差別が根強く残っており家系図や写真まで出回っている」というような内容でした。
正直、今日まで生きてきて、「部落問題」や「部落差別」を意識上に置いたり思い起こすことが全くと言っていいほど無かったのですが、このニュースを読んだことで改めて意識することになったので記事に書きたいと思います。
(スポンサーリンク)
もくじ
ニュース概要
「家系図や写真まで…」ネットの部落差別が消えない理由とは? YouTubeの“部落探訪”に「悪意がすごい」の声
今、ネットに広がる悪質な部落差別が問題になっている。情報が一人歩きし、どのような意味を持つか深く知らない人も多い「部落」。
「部落」とは、江戸時代以前の身分制度のもと「穢れている」など、排除されてきた人々が居住している場所(部落)をさす。「部落問題」は、その地域に居住する人々や、そこにルーツを持つ人々に対して、受けるべき権利を奪われてきた問題のことである。
(中略)
部落出身者が就職の際に「部落出身」と明かすと、企業から断られることもある。NPO暮らしづくりネットワーク北芝の職員である埋橋美帆さんは「企業が部落の地域が載っている本を手に入れて照らし合わせている時代もあった」と説明。しかし、今はその行為が法律違反となり、企業連合で「人権を勉強していこう」という動きに変わっているという。
企業の意識が変わってきたとはいえ、絶版になった『部落地名総鑑』を復活させようと考えている人もいる。部落の情報発信サイト「BURAKU HERITAGE」のメンバーである上川多実さんも「親の名前や住所、電話番号が部落の関係者一覧リストに載せられた」という。一時期は無断で「家系図や写真までネットに掲載されていた」と胸の内を語った。現在も調べれば『部落地名総鑑』の内容はネットで見ることができてしまう。
(中略)
なぜ、法律で部落差別を取り締まれないのだろうか。教育コーディネーターとして活動する武田緑さんは「部落に限らず『差別をしてはいけない』っていう法律がない」と話す。2016年の「部落差別解消推進法」施行によって、人権擁護に関する法律が制定されたが、現在も差別が残っている。
(以下略)
【引用元】Abema TIMES
ニュース記事の考察
ニュース記事の内容から言えば、当然差別はしてはいけませんし、ネット上に勝手に家系図や写真を掲載するのもあってはならないことです。
それは部落問題だとか差別以前に、「プライバシーの侵害」や「肖像権の侵害」や「個人情報保護法違反」に当たるのは間違いないでしょう。
その基本的な人権侵害や個人情報問題をすっ飛ばして「差別」だけを前面に出し「部落に限らず『差別をしてはいけない』っていう法律がない」という落としどころで悲壮感を漂わせている点には違和感を感じました。
「差別を罰する法律がなくても基本的人権や個人情報保護の観点から戦う方法はあるのではないか」
と感じたのです。
そもそも、就職の際にわざわざ「部落出身」と明かし、「差別を明確的確に相手に刷り込む必要」があるのでしょうか(面接官から聞き出される時代もあったのかもしれませんが)。
それは「部落差別云々」ではなく、「あえてそういう事を言って来る人に魅力を感じない」とか、そういう類のもののように感じます。
例えば就職面接の場で「私は田園調布出身です」とか「ビバリーヒルズ出身です」とわざわざ言う人を快く思わない心理と同じで「差別」とはまた別の心理になるのです。
過去にネット上で掲載されてしまったものは、取り返しが困難にはなりますが、こういうニュース記事が流れることで、改めて検索される可能性が大きくなり、「今よりもっとネット上の差別情報の回収や収拾が困難になる危険」があるのではないでしょうか。
部落差別の解決方法
冒頭でも申し上げた通り、このニュース記事を読むまでは「同和問題」というものは全く意識上になく、すっかり忘れていました。
つまり「私の中では既に風化していた」ということになります。
改めてニュース記事を読んだことで「記憶と意識によみがえった」わけです。
同和問題を解決していくためには2つの方法があると思っています。
①「風化させていく」
誰も同和問題を語らず話題にもせず、ニュースや教育もしなければ恐らく私のように皆の意識や記憶から薄れていきます。
薄れて風化していくということは、過去の事実は無くならないにしても、現状として部落差別というものの存在は忘れ去られていき、部落差別は「あってないようなもの」ということになります。
就職や結婚の際に「差別」が発生しやすいようですが、もし仮に「風化」させていたのなら、今頃はそういう場面で差別を受けることは無くなっていたのではないでしょうか。
しかし仮にそうだったとしても、その時代時代で「現に差別を受けている人はほっといていいのか」という問題があります。
基本的人権の保障という点では国家や司法、行政が確保していく命題となるので、その方法として「同和教育の推進」という方法が採用されているわけです。
しかし、「不利益と不快を感じさせられたら全て差別」「差別か否かというのは被差別者しか分からない」というような主張や「同和地域の子供たちだけ学力補助」「就職で優遇」「公務員の同和枠」「税金の免除」などの対応は新たな問題や逆差別を生じさせることになり、いき過ぎと言わざるを得ません。
②「鮮明に印象付け訴えていく」
過去の歴史や事実を声高に叫び、鮮明に印象付けた上で、「差別はあってはならないことだ」という訴え方です。
現在の日本の主流がこのやり方になります。
但し、部落差別を無くしていくために様々な団体が結成されていますが、現実問題として今でもニュース記事のような部落差別は根強く残っていますし、私のように忘れてしまっていた人に対しても再度「部落差別」を強く思い起こさせます。
もちろん、「事実をしっかり知っておく」ということは確かに大切なことだとも思います。
同和教育の可否(体験談①)
私が初めて「同和教育」に触れたのは小学生の時でした。
今から約30年ほど前のことになります。
30年ほど前でさえ、小学生の私は「部落差別」や「同和問題」を知りませんでした。
急に「同和教育」なる授業が行われ、今まで普通に接していた同級生が急に涙ながらにカミングアウトをするという内容でした。
「私は被差別部落の人間です。生まれた場所で差別を受けるのは悲しいことです」
というようなことを嗚咽まじりで言わされていました(私には言わされているように見えました)。
こちらとしてみても、小学生ながら何がどうなっているのか訳が分かりませんでした。
今まで普通に接していた同級生が涙を流して「私は部落の人間です!」と叫ぶのです。
「そういう差別があるのだな」
「過去に差別を受けていた地域の人達なんだな」
「嗚呼、あの人たちを差別の目で見てはいけないんだな」
という「差別の刷り込み」が私の中でなされました。
何故か、その同和教育があってから、部落地域の同級生と逆にギクシャクしてしまった記憶があります(お互いです)。
今まで意識も認識もしていなかったのに、急に同級生が「被差別者」になってしまったからです。
確かによく考えれば、部落と言われる地域には「隣保館」という施設がありました。
当時の私は「公民館の大きいバージョン」くらいにしか思っていませんでしたが、それが「部落の象徴」たるものであることは後になってから知りました。
「わざわざ部落を象徴する施設を建てる大人の心理」と「部落の子供だけ優遇されているかのような逆差別感」は今でも疑問に思っています。
子供(小学生)にしてみれば「差別の刷り込みをされてしまった我々はお互い不幸だったんじゃないか」というのが正直な感想です。
部落解放団体の可否(体験談②)
小学校・中学校と同じ顔触れの同級生だったものの、高校生になると顔ぶれも変わり、また受験やら思春期特有の様々な問題で、「部落差別」のことなど全く忘れてしまっていました(現状でもそういう感じです)。
その後、大学を卒業し就職し、転職もしました。
その中で、中小企業の番頭も経験しました。
その会社の勤務中のことです。
社長宛に某部落解放団体幹部を名乗る人物から電話が掛かってきました。
その内容は
「おたくの会社は部落解放問題や同和問題にどういう取り組みをされていますか?」
というような内容でした。
私を含め、社長や会社全体で「部落差別を意識したことがなかった」ので
「特に部落問題については意識をしておりません」
というような回答をしました。
すると先方は
「それはいけませんね、差別問題にもっと真剣に取り組んで頂かないと、差別をしていることと同じことになります」
「我々の著書である同和教育の本を1冊5000円で販売しております。社員様20名様分で20冊10万円で是非ご購入し社内教育や勉強にお役立てください」
「部落差別を無くすために御社の善意を宜しくお願いします」
というような内容を言ってきました。
全ての団体がこういうことをしているわけではないのでしょうが、事実として「差別利権」は存在するのです。
興ざめどころか社長はじめ、我々は血の気が引く思いをしました。
そして改めて「部落差別が刷り込まれた」体験でもあります。
最後に
どんな差別であろうと無いに越したことはありません。
同和教育の在り方については賛否両論あるかと思います。
個人的な意見としては、現に自分自身の中で風化していた問題であることを根拠に、「同和問題は風化させて解決する方が良いのではないか」と思っています。
私が小学生だった30年ほど前でも既に風化しかかっていたように思います(就職や結婚問題は多少はあったのかもしれませんが)。
そのまま「差別の刷り込み」をやめていれば、今では既に完全に風化していたかもしれません(あくまで可能性)。
歴史的事実として知っておくことは大切なのかもしれませんが、適宜、時期やタイミングや地域性や内容を考慮し、柔軟な対応が必要なのではないでしょうか。
同和教育でわざわざ自らを「被差別部落出身だ」と名乗ることで「差別の伝承」「差別の再生産」をしていることになる気がします。
また、同和教育や部落解放運動によって新たな問題(人間関係や利権問題等)を発生させることにもなります。
もちろん「風化させること=問題解決」と言い切れない部分もありますが、こういう完全解決が難しい命題に対しては「今後の被害や損失や嫌な思いをする人が、より少ない方を選択する」というやり方のほうが良いのではないでしょうか。
2つの体験談を書きましたが、両方とも良い思い出ではありません。
今考えても、小学生の時の同和教育が無ければ同級生と違うシチュエーションがあった可能性を感じますし、同和教育の本を1冊5000円で買うように迫られる経験をしないで済んだような気がします。
ことあるごとに登場する「同和問題」を刷り込まれた胸が何故か締め付けられるのです。
「部落差別が風化してしまうと困る人がいる」ように思えてなりません。
そして我々一人ひとりにも「差別意識を刷り込まれない権利と選択の自由」があってもいいのではないでしょうか。